河井継之助記念館オープン時に作成した小冊子『河井継之助のことば』 (平成18年12月27日、河井継之助記念館発行) の全文をここに公開する。
この冊子は、今泉鐸次郎著『河井継之助傳』から選んだ継之助の言葉を平易に書き直し、年代順に編集したものである。
時代を超えて、いまなお伝え続けたい珠玉の言葉の数々──司馬遼太郎が彼を『英傑』と呼んだわけが分かってくると思う。
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河井継之助のことば
馬術は、駆けることと、止まることさえできれば足りる。
きまりきった作法などは、必要ない。
ワンパクだった継之助は、弓馬槍剣の師範の教えに従わないこともあったという。
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心と眼と手が一致さえすれば、決して傷などをつけることはない。
何事もこの秘伝を忘れてはならない。
妹の安子に剃刀で月代をそる際に。
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自分は、講釈などをするために学問したのではない。
講釈が必要なら、講釈師に頼むがよい。
当時、最高の名誉とされてた藩主の世継ぎへの講義を断ったときのことば。
このため継之助は藩からおしかりを受けた。
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何でもよい、一つ上手であればよいものだ。上手ならば名人といわれる。
これからの時代は、何か一つ覚えておらなければならない。
妹の安子から、五歳の甥の牧野金太郎が凧揚げが好きだと聞いて。
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古より、武士の家を「弓馬の家」というが、今後は、それを改めて「砲艦の家」といった方がよかろう。
鉄砲の稽古をよくしていたころに。
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自分に剣付銃を所持する一隊千人の兵を率いさせれば、いかなる堅陣を破ることも難しくないだろう。
『剣銃千兵破堅陣』の句を得た際に。
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面白いというだけのことで、本を読むのであれば、本など読まずに、芝居か寄席へでもいくがよい。
久敬舎で仲間だった刈谷無隠に。
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人の世に生きていくということは、苦しい事も、嬉しい事も、いろいろあるものだ。その苦しい事というものに堪えなければ、忠孝だの、節義だの、国家の経綸だのといったところを、とうてい成し遂げられるものではない。そして、この苦しいことに堪えるということは、平生から練磨しておかなければ、いざというときに出来るものではない。
久敬舎で仲間だった刈谷無隠に。※経綸=国を治めととのえること、政治
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天下になくてはならぬ人となるか、あってはならぬ人となれ。
沈香もたけ、屁もこけ。牛羊となって、人の血や肉になってしまうか、豺狼となって、人の血や肉をくらい尽くすか、どちらかになれ。
知人に語ったことば。※沈香=代表的な香木の一つ。豺狼=ヤマイヌとオオカミ
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学問というものは、実行しなければ、何の役にも立たないものである。
久敬舎で仲間だった刈谷無隠に。
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英雄の気質を備えているものほど、なおいっそう危険にあうものだ。
久敬舎で仲間だった刈谷無隠に。
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言えば必ず中たり、務め苟もせざるは、弁と為す。
行えば必ず思い、善、苟もせざるは難しと為す。
26歳、江戸遊学時の書。
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相撲の見どころは、双方十分に仕切りをし、お互い十分な所で立ち合う一瞬の気合にある。
組み合ってからは勝負あるのみだ。
江戸にあっては大相撲の本場所をかかさず見物した。
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人生には、出処進退の四つが大切である。その中で、進むことと出づることは、どうしても上の人の助けが要るが、処ることと退くことは、人の力を借りず自分で決めるべきものである。
継之助が藩の横浜警備隊長への就任を断ったとき、師の古賀茶渓の忠告に対して。
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辛苦艱難を楽しみに変えるというのは、聖人のことです。しかし、ただ苦しんでするのではなく、自分自身の考え方を本におけば、一分の仕合わせもあるものです。
安政六年九月、父宛て書簡に妹の安子の苦労を思いやって。
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人間というものは、棺桶の中に入れられて、上から蓋をされ、釘を打たれ、土の中へ埋められて、それからの心でなければ、何の役にも立たぬ。
ある人は「彼は棺槨中の人、地下百尺底の心をもって世に立ち、事に当たった」と評した。
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不肖の私、父母につかえる道もわきまえず、まことに恐れ入りますが、たとえ立身は孝の終わりであるという教えがあるとしても、真の孝行の道を守りたいとがんばっております。
安政六年、山田方谷のもとへ遊学する願いを書いた両親宛ての書簡。
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御両親様、蒼海の大恩に報い奉り候は、一身の養生と、学ぶところの勉強とにこれあるべくと存じ奉り候。不才の段は致し方なく候えども、何卒一方の用を成し候人間にあい成りたく、それをのみ祈り願い奉り候。
安政六年六月、父の代右衛門宛ての書簡。
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私は、先生が行う具体的な方法を学びたいと思っているのです。一つひとつの書物についてこまごまと質問をし、文章の意味を尋ねたいと思っているわけではありません。
山田方谷から入門を断られたときに。このことばをきっかけに継之助は入門を許された。
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方谷先生ほどであれば、越後屋の番頭がつとまる。
山田方谷門下の友人・三島中洲に語ったことば。※越後屋=三井財閥の前身、越後屋三井呉服店
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自分の心を責めては、一つも立つ所がなくなるものだ。
主君牧野忠恭の老中辞職問題に関わった際に。
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黒船が来たといっても、わが国の政治がしっかりとしていて、軍備が整い国が豊かであれば恐れるに足りません。用意もしないで、攘夷々々と騒ぎ立てるのは、臆病者のたわごとで心痛むことです。私に準備があれば、通商の道を開き、国を豊かにする実をあげることも出来ましょう。
義兄の梛野嘉兵衛宛ての書簡における長州征伐出兵についての批判。
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公なれば人怨まず、明らかなれば人欺かず、この心をもって、善と悪とを見分け、賞と罰とを行うときは、何事かならざるなし。有才の人、徳なければ人服さず、有徳者も才なければ事立たず。誠を人の腹中に置く御工夫、御油断これなきよう、ひとえに乞い願うところなり。
郡奉行のとき、巻組代官の萩原貞左衛門に与えた書。
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義の存する所、孤危を冒すも、必ず心の宜しきところを吐き、百折を経て回らず。
郡奉行のとき、付き従っていた大崎彦助に与えた書。
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論語にせよ、大学にせよ、どれでも処生の教訓になる立派なことが書いてあるが、浄瑠璃本も読んで見るがよい。ためになる。浄瑠璃は世情の機微を表現しているから、それを読んで少しは人間の心を知るがよかろう。人間はどんなに偉くとも、人情に通ぜず、血と涙がなくては駄目だ。
町同心たちの集まるところを見廻った際に。
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十数年前、藩主がご登城する途中で、犬のけんかがあった。家来は皆その方に気を取られていたのに、彼だけは一人、一瞬たりとも藩主のかごから眼を離すことがなかった。ほとほと感心した覚えがある。確かにおろかものかも知れないが、なかなか見どころのある男である。
愚か者と評判の男を登用した理由を聞かれて。「河井さんは、見どころさえあればだれでもお相手にされて、お酒を召し上がろうという人でした」(旅館・桝屋の女将の話)
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欲の一字より、迷いのさまざま、心を暗ます種となり、終わりは身を失い、家をも失うにいたるべし。心を直に悟るなら、現在未来の仕合わせあり、子々孫々にも栄ゆべし。ほめそやさるるは仇なり、悪みこなさるるは師匠なり。只々一心正真に深実つくすのが身の守、此言、夢々忘るべからず。
刈羽郡山中村の訴訟事件を解決した際に村民に読み聞かせたもの。和解の後、継之助は預かっておいた賄賂の包みを差し出して酒をふるまい、村民を驚かせた。
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法や制度は、清廉で能力のある人がいて、はじめてその成果が出るものだ。人を得ずして法だけがあるのは、かえって危険である。
年貢の石高を決める検見制の改革に際して。
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私は金銭の値を尊くすることにつとめている。与えるべきでない時に与えるのは、金銭の価値を卑しくするものである。
継之助は金銭の扱いにはすこぶる厳格だったという。
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二度か三度、水たまりの中くらいへは放り込まれるかも知れないが、おれを殺すほどの気概のあるやつは一人もいない。
親友の小山良雲から「藩政改革のうらみで命をねらっている者がいる」との忠告を受けて。
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いや、戦はしてはならん、戦してはならんでや。
藩士から、戦うべきか否かを問われて。
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戦争はしたくないものだ。せめてもう四、五年、戦争せずに済むならば、汽船の二、三隻も買い入れ、この新潟を足がかりにして、藩内の二男、三男を商人に仕立てようと思う。商人といっても、今のような商人じゃ役に立たない。中国や朝鮮へやって、大きな貿易をさせるつもりだが、どうも戦争せずには済まないようすだ。
江戸藩邸を引き払って、海路で新潟港に到着した際、出迎えの藩士に対して。
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世の中は、大変に面白くなってきた。寅や、何でもこれからの事は商人が早道だ。思い切って商人になりやい。
従者の外山寅太(のちの外山脩造)に。寅太は栃尾小貫の庄屋の息子で、継之助の藩政改革に協力し、戊辰戦争に付き従った。戦争後、関西財界で活躍し「東の渋沢栄一、西の外山脩造」といわれた。
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民は国の本
吏は民の雇
「西人の語を録す」として書かれた言葉。吏は藩庁の役人。
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小藩ではありますが、十余万人の人民をして、職業に精励させ、財政を充実させ、安心して生活できるようにすることが、天職と心掛けています。それぞれの藩が、そのように考えることが、日本国全体の平和と繁栄につながることでしょう。
小千谷談判の嘆願書から。
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人が高い所、高い所というなら、おれは、一番低い所を取ってみせようか。
栃尾・荷頃の薬師堂の陣屋で。「河井さんがまだ栃尾で陣取っておいでの時分から、八町沖を渡る計画のあることに気づきました」(外山脩造)
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御一同とも、必死をきわめて勝ちましょう。死ぬ気になって致せば、生きることもでき、間違いなく大功を立てられますが、もし死にたくない、危ない目にあいたくないという心があるとするなら、それこそ、生きることもできません。
八丁沖の戦いの際の口上書。当時としてはめずらしく口語で書かれ、戦いの前に、継之助は全員にこれを読み聞かせたという。
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勝ったものも、負けたものも、武士という階級は、大勢(農・工・商)のものに負けてしまう。見苦しいことをしないで、武士が絶えないうちに死んだ方がよかろう。潔く戦おうではないか。
長岡城奪還戦の際、部下の一人をはげまして。
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血がたくさん出たから、顔色は悪いかもしれぬが、命には別条なかろう。しかし、足は役に立つまいなあ。人が聞いても傷は軽いと言っておけよ。
長岡城奪還戦で負傷した際、外山寅太に。
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会津へ行ったとて、何のよいことがあるものか。おれは行かない。置いて行け。
八十里 こしぬけ武士の 越す峠
八十里越を前に、吉ヶ平にて。
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私はもはや、殿様に奉公して、役立つこともできなくなりました。傷の痛みがあまりにも激しいため、険しい山を越えて行くわけにもまいりません。周りではいろいろと励ましてくれますが、死ぬか生きるか、それはもう私自身が決めることではなくなっているのです。
椰野嘉兵衛宛ての書簡。険しい山=八十里越。継之助の絶筆か。
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松蔵や、永々厄介して呉りやって、ありがたかったでや。
われ死なば、これを火せよ。
死の前日、従者松蔵に死後の準備を命じて。
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継之助という人は、本質を外さない人だったとつくづく思う。自分の死を見つめるときでさえ、客観的で正鵠を得ていることに胸を打たれる。
私事ではあるが、当時『河井継之助傳』を何度も読み返して「ことば」を拾いこの小冊子にまとめた経験は、何物にも代えがたい思い出となっている。
タイトル画像: 冊子の表表紙と背表紙:水島爾保布が長岡を描いた日本画『元旦登城之図』※原画は彩色画である