良寛と河井継之助の父(郡奉行を務めた代右衛門秋紀)に親交があったことをご存知だろうか。
継之助は、 越後 の三傑として「酒呑童子、上杉謙信、良寛」を挙げたという。良寛は、たびたび河井家を訪れていて幼少の継之助にも接していたと思われる。三傑のうち良寛だけが「伝説の人」ではなく、継之助にとって現実の人物だった。今なお十分に評価されているとは言い難い良寛だけに、本質を見抜き世に処した継之助の評価はとても興味深い。
当代随一の知識人にして、国仙和尚が「大愚」と讃えた禅の真の実践者──良寛は、モノカネの時代を脱しようとしている私たちに、たいせつな何かを教えてくれるはずだ。
ということで今回は、長岡の良寛ゆかりの地を紹介したい。
秋の行楽シーズンを迎えたことでもあり、ぜひ市内の良寛ゆかりの地を散策し、あらためて “ 良寛 ” に触れていただければと思う。
■ 良寛ゆかりの地を巡ろう
寺泊に、良寛が少年時代に学んだ三峰館(狭川塾)の師・大森子陽の墓や諸国放浪を終えて越後に戻って最初に住んだ郷本の「良寛空庵跡」がある。また、45歳ころから3度も仮住まいした密蔵院(照明寺境内)もある。
身分や職業を超えて、人々と交流した良寛らしいエピソードも今に伝えられている。
与板は良寛の父・山本以南の出身地である。その生家跡には以南の句碑が残されている。
弟・由之が、与板で晩年を過ごしていたため、良寛は由之に会いにたびたび与板を訪れていたという。現在、由之が過ごした地には歌碑が建ち往時を偲ぶことができる。
与板は父の出身地であることから縁者も多く、良寛は歌や学問を通じて多くの人と親交を深めている。与板河川緑地たちばな公園にある21基の歌碑からもその一端がうかがえる。
和島地域は、良寛が晩年を過ごし、愛弟子となる貞心尼との出逢いの地である。国上山の乙子神社から島崎の木村家の庵室に移り、そこが終の棲家となった。
良寛の墓がある隆泉寺がある通りは、良寛と貞心尼がやりとりした歌を集めた歌集「蓮の露」にちなんで「はちすば通り」と名付けれ、多くの史跡が点在する。
今年、貞心尼没後150周年を迎えた。
4月には、貞心尼が暮らした閻魔堂(長岡市福島町)にブロンズの貞心尼像が建立された。下の写真は4月11日の貞心尼像の除幕式。新組小学校6年生のみんなが除幕し、お披露目となった。
現在、和島地域の良寛の里美術館では、特別展が開催中だ。以下に、その見どころなどを紹介しよう。
■ 良寛と貞心尼
良寛の里美術館では、「貞心尼没後150周年展 -和島は良寛と貞心尼の出逢いの地-」を10月2日(日)まで開催している。
良寛と貞心尼は、今から195年前に和島で出逢った。良寛70歳、貞心尼が30歳の頃である。良寛を師と仰ぐ貞心尼の、良寛が亡くなるまでの4年間の交流はとても印象深い。この特別展では、貞心尼がまとめた最初の良寛歌集「蓮の露」、貞心尼が刊行を支援した最初の良寛詩集「良寛道人遺稿」をはじめ、良寛と貞心尼の遺墨など、初公開を含む約50点の資料を展示している。
中でも、貞心尼の歌集「やけのの一草」は、2020年に良寛の里美術館に寄贈されたもので、本展にて初公開となる。同名の歌集は柏崎市立図書館にも収蔵されており、内容にはいくつかの違いが見られ、興味が尽きない。今後、貞心尼の研究がさらに進展することが期待される。
会場で、展示リーフレットのQRコードにスマートフォンでアクセスすれば、分かりやすい現代訳や説明などを読むことができる。若い人たちからも関心を持っていただき、多くの方からご覧いただけるよう工夫をしてきたところだ。
今秋10月1日(土)には、出雲崎町で全国良寛会が開催される。
県外からも多くの良寛研究家やファンが訪れる予定だ。この機会に多くの方々から、特別展をはじめ、長岡の良寛ゆかりの地を巡っていただき、“ 良寛 ”を感じていただければ嬉しい限りである。
関 連 記 事 : 峠 最後のサムライ
タイトル画像: 長岡市島崎のはちすば通り、呼称は「蓮の露」にちなんで名付けられた。