中越大震災から20年が経った。
平成16年10月23日午後5時56分、 М6.8、最大震度7の激震が中越地方を襲った。各地で甚大な被害が発 生し、多くの尊い命が犠牲になった──。(当時の被災状況はこちら)。
▽ 震災当時 市の対応(クリックで開閉)
この年は7.13水害もあり、加えて、翌4月1日の市町村合併を控えた業務が重なる中での被災。午後5時56分の被災直後から市職員が各地域に避難所を開設し、その日から連日泊りがけで休みなく対応した。発災直後は、一部地域を除いて市内全域で電力・上下水道がストップ。道路など交通インフラへの被害は大きく、職員の多くが自宅からの登庁も難しい状況にあった。
市は直ちに災害対策本部を設置し、まずは、食料や水の確保と、避難所の運営に注力。その後には、家屋被害の調査、り災証明の発行、生活支援金の支給、災害ゴミの収集、インフラ応急復旧など、さまざまな課題が山積していた。また、山古志村では、全村避難を10月25日に決定。合併前ではあったが、長岡市で受け入れを行った。
あの大災害から復興を成し遂げ、こうして被災地が平穏な日常を送れているのも、当時の市民、関係者の皆さんの尽力、大変な苦労、そして復興にかける想いがあってこそである。改めて、震災で尊い命を失われた多くの方々と、そして、復興のために奮闘しながら、この20年の間にお亡くなりになった全ての方々に謹んで哀悼の意を表する。
大きな節目の今年、各地で犠牲者への追悼、支援への感謝、震災の記憶継承のため、追悼行事が行われた。この記事では、かつて被災地と言われた地域の今の姿を紹介しながら、これまでの20年を振り返っていきたい。
■各地での追悼イベント
〇長岡
10月19日にアオーレ長岡で「中越大震災20年フォーラム」を開催。10月23日には、ナカドマに置かれた献花台に多くの人が参列し、「中越大震災20年事業~私たちの10.23を忘れない~」と題した式典が行われた。
深沢小学校の3、4年生の皆さんは、震災について学んだ総合学習の成果発表を行ってくれた。また議員発議による「長岡市自助・共助の意識を高め市民のいのちを守る条例」がこの日施行となった。
〇川口
震央の地・川口では「震災復興おかげ様感謝デー実行委員会」の皆さんが中心となり、すぱーく川口で追悼行事を行った。
川口中学校3年生が震央の地を巡る震災学習を行い、その後、生徒の皆さん製作の感謝のメッセージキャンドルが各地で飾られた(山古志、アオーレ長岡、おぢや震災ミュージアムそなえ館等)。震災後に生まれた若い世代の方々が震災の教訓を学び、想いを共有するということは大変意義深い。
また今年は、黄色い旗に住民が感謝や応援のメッセージなどを記入し、自宅前等に掲出する「黄色いフラッグ大作戦」が復活し、横断幕やメッセージフラッグが川口のまちを彩った。住民の皆さんの想いはきっと多くの方に伝わったことだろう。
〇山古志
被災直後に全村避難を決断した山古志では、「小さな山古志楽舎」の皆さんを中心に、山古志体育館で「山古志の集い」が開催された。集いには山古志出身者や、東洋大学のボランティア学生、さらにはデジタル村民の皆さんも駆けつけてくれた。
時代の大きな変化の中で、本当の豊かさ、人との触れ合い、自然・文化など、山古志のひとと風土が生み出す価値に共感する方が増えてきているように感じられるのは心強い。
ほかにも、さまざまな関連イベントが行われた。20年という決して短くない期間、震災を語りつぎ、地域を守ってくれた人がいたからこそ、こうしたイベントが開催できた。改めて感謝したい。
■「被災地」から、中山間地域の「希望」へ
震災当時2,167人だった山古志の人口は、現在では722人(令和6年11月1日時点)と、約3分の1まで減少した。しかし、牛の角突きや錦鯉、棚田など伝統的な文化を大切にしながら、デジタル村民をはじめとした新たな取り組みで、交流人口増加と地域活性化を図っている。
あの震災を乗り越え、山古志が地方創生の一例として全国から注目されるようになったことは、今年元日に発生した能登半島地震をはじめ全国の被災地や中山間地域の希望にもなることだろう。
山古志が真に中山間地域振興のモデルケースとなるのかは、さらなる今後の取り組みにかかってくるはずだ。人口減少そのものを根本的に止めることは難しい。それでもなお、地域に眠る活力を信じ、新しく明るい地域像の実現に向けて、歩みを進めていく。
関 連 記 事 : 能登半島地震 祈りの炎、永遠に 仮想山古志プロジェクト
タイトル画像 :
中越大震災20年事業~私たちの10.23を忘れない~
子どもたちによる献花